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【桜井】鹿児島市にひとり残ったのは、中学1年生のときですね。それはどうしてですか?
小さいときからサッカーをやっていまして、名門鹿児島実業高校に入ってサッカーを続けたかったからです。
父親は銀行員で、鹿児島の支店の建て直しに行ったのですが、1年で建て直しができて戻ることになってしまいました。それで自分はひとり鹿児島に残ることになり、中1から中3まではひとり暮らしをして、入学してからは寮に入りサッカーを続けました。ポジションはミッドフィルターで、高3の時に、全国優勝しました。Jリーグの数チームからオファーがあったのですが、同時並行して大学にも行っていいという平塚ベルマーレに決めました。大学には、殆どいけなかったですね・・・でも卒業しましたよ。(笑)
◆Jリーグでは、何年くらい活躍されたのですか?
23歳のときに両膝を故障で、故障者リストに載ってしまいました。事実上の解雇です。5歳のときからサッカーをやっていて、プロサッカー選手になることが夢でしたから、選手生命が絶たれた時は、人生の目標が無くなり胸に大きな空洞ができて、死ぬことも考えました。実際にどうやったら死ねるかといろいろ考えたのですが、どれもみんな怖くて・・・臆病なんですよ。結局死ねませんでした。(笑)
その頃の話を始めると、20代は涙が止まりませんでした。今はもう大丈夫ですがね。オヤジになったのかなぁ・・(笑)
◆介護ビジネスにかかわるきっかけは?
Jリーグを解雇されて6ヶ月そうやって悩みながら遊んでいました。その時に友達になっためちゃくちゃ明るいアメリカの軍人が、「日本はこれからはシルバービジネスだよ」と言ったのです。その言葉で、「そういえば、自分はサッカー選手を10年くらいやって、その後は祖母の為に老人ホームを作ろう」と思った小さい頃の夢を思い出しました。その友人の明るさには本当に救われました。
そこで、ハローワークに行き、求人票をパソコンで「埼玉・東京」のところで検索して、一番上に出てきたところに面接に行きました。それは秩父にある特別養護老人ホームでした。受かってしまって、(笑)えらい遠くて、通勤が大変でした。(笑)
仕事に入って2週間目に、自分にはあわない・・と思い、主任に「やめたい」と言ったら、主任から「案外根性無いんだね」と言われてしまって、その言葉に「やってやろうじゃないか!」と発奮してしまって、この仕事にはまり込んでいきました。その主任は2ヵ月後に辞めちゃったのですよ。(笑)
◆どのように介護ビジネスを習得されていかれたのですか?
おむつ交換・入浴・爪きり・ベッドのシーツ交換・送迎・・と何から何までです。プロサッカー選手から180度の転換でした。自分は何でこんなことをしなければいけないのだろうかと思ったこともありました。でも、お年寄りと接すると、こちらがしたことに対して、きっちりと結果がかえってくるのです。
例えば、排尿パターンというのがありまして、どういうリズムでこの人は尿が出るのかというのを把握すると、その人がオムツをしなくてもよくなります。その時にトイレに誘導してあげれば、排尿できるのです。オムツをずっとしていると床ずれができてしまうのですが、それも治ってきます。また食事も、黙って皿にあるものを口に入れられていると、本人は何を食べさせられているかわからなくて、食がすすみません。でも、「これはお肉だよ」とか「これはにんじんだよ」と話しかけながら食べさせてあげると、よく食べてくれます。食事がすすむと顔色がよくなって、健康状態がとてもよくなるのです。
このように、自分のひとつひとつの行動が結果として現れてくることが嬉しかったですね。
仕事を始めて、2ヶ月くらいすると、施設長と現場の間で揉め事がありまして、一気に15名ほど辞めてしまったのです。残ったのは僕と家族持ちの女性職員とパートさんだけになってしまいました。それから6ヶ月間は、僕は住み込みで、夜勤兼日勤、休みなしの状態でした。(笑)僕しか若手がいなかったので、やるしかなかったのですよ。
その時は、睡眠時間が毎日2時間くらいで、疲れが体の芯まで残って胸がしめつけられるようでした。朝、水のシャワーを浴びて、「ヨッシャ〜!」と気合を入れて働くという毎日が続きました。(笑)理事長も施設長もホームの仕事にはノータッチだったので、実質的にはすべての切り盛りをしてくことになって、1年後に、事務長、その1年半後には副施設長を任されました。
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