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過去にご紹介した経営者
藤原 照久氏

株式会社レインボー・ノーツ
代表取締役
藤原 照久

池田 大氏

株式会社文典堂
代表取締役
池田 大

渡邊 智恵子氏

株式会社アバンティ
代表取締役
渡邊 智恵子

江島 美恵氏

ATELIER SIX
代表
江島 美恵

市原 芳夫氏

株式会社富士国際旅行社
代表取締役
市原 芳夫

高橋 正実氏

MASAMI DESIGN
グラフィックデザイナー
高橋 正実

佐藤文雄氏

劇団銅鑼
俳優
佐藤文雄

原 和良氏

パートナーズ法律事務所
所長:弁護士
原 和良

川島 彩子氏

カラーコーディネーター/カラーセラピスト
川島 彩子

古川 晶子氏

キャリアフォーカス研究所
主宰
古川 晶子

前垣内(まえがいと)勘左ヱ門氏

株式会社成和製造所
代表取締役会長
前垣内(まえがいと)勘左ヱ門

三澤(みざわ)誠氏

有限会社エヌ・イー・ワークス
取締役社長
三澤(みざわ)誠

浜野 慶一 氏

株式会社浜野製作所
代表取締役
浜野 慶一

小松 易 氏

スッキリ・ラボ
代表
小松 易

金子 鮎子 氏

株式会社ストローク
代表取締役
金子 鮎子

原田 弘良 氏

株式会社アクア
代表取締役
原田 弘良

蛯沢 勝男 氏

勝電気工業株式会社
株式会社eウインテック
代表取締役
蛯沢 勝男

株式会社タイガー
代表取締役

竹添 幸男

株式会社クリタエイムデリカ
常務取締役

栗田 美和子

ビデオ撮影製作「JAN」
代表
NPO法人アジアチャイルドサポート

池間 哲郎

株式会社コムネット
代表取締役

菊池 恩恵

株式会社スタビライザー
代表取締役

阿部 敏夫

株式会社ナナ・コーポレート・コミュニケーション
代表取締役

福西 七重

株式会社ニエカワ設備
代表取締役

牲川 忠夫

紀洋建設株式会社
代表取締役

根本 一久

株式会社サンライズエンターテイメント
取締役会長
久保 浩

有限会社アヴァカス
代表取締役
黒部 健次

株式会社ヒューマンシステム
代表取締役
湯野川恵美

株式会社文化堂
代表取締役会長
後藤せき子

株式会社第一製版
代表取締役
竹ノ上蔵造

株式会社リターントュヒューマン
代表取締役
平井 七重

劇団銅鑼
制作部長
田辺 素子

有限会社原商店 (おとうふ処 りせん)
代表取締役
櫻井 忠利

株式会社コサイン 代表取締役
星 幸一

株式会社童心社 代表取締役会長
紙芝居文化の会統括委員
酒井 京子

株式会社アークビルサービス
代表取締役
田中 正吾

株式会社ビジョンテック
代表取締役
真山 美雪

株式会社アッカ・エンタープライズ
代表取締役
水落 大稔

有限会社とと屋
代表取締役
坂井 賢治

映画監督・脚本家
港 健二郎

株式会社ウェスタ
取締役会長
川本 久美惠

株式会社湯建工務店
代表取締役
湯本良一

株式会社植松電機
専務取締役
植松 努

フリーアナウンサー・大学講師 カラーセラピスト
外川 智恵

合資会社若竹屋酒造場
代表取締役

林田 浩暢

株式会社テンナイン・コミュニケーション
代表取締役

工藤 浩美

株式会社フリーセル
代表取締役社長

武吉 広大

株式会社グローバル・ケア
取締役
ペディ・ケア店長

桜井祐子

木と音の会代表
泉谷 貴彦

有限会社サム
代表取締役

庄司和晴

メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン 事務局長
大野 寿子

イオス株式会社
代表取締役

村上 光

MINE(マイン)
代表

石岡 美奈子

株式会社ワイズ
代表取締役会長
荒木 賢三

tree 絵本プロジェクト
代表
金田 江里子

インターワイヤード 株式会社
代表取締役
斉藤 義弘

有限会社販売企画研究所
代表取締役

東山 雅広

株式会社 浅野  樹脂事業部SERA
取締役会長
世良 信子

株式会社ウェルネス
代表取締役

長澤 眞也

有限会社 ぶしどうマネジメント代表取締役

濱本 克哉

特定非営利活動法人かものはしプロジェクト
共同代表

村田 早耶香

株式会社 アメディア
代表取締役

望月 優

株式会社関東消防機材
代表取締役

植松 信保

マサコフォーマルズ代表

アグネス 沖本

有限会社アールウェーブ 防災本舗 代表取締役

古澤 猛夫

株式会社エーシーエスタムラ 代表取締役

田村 正行

株式会社ベーシッククリエイティブ 代表取締役

片桐 敏雄

写俳
日記 桜井のビジネスニュース
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藤原 照久 氏

2011/9/5

後世に残すべき、心が豊かになる貴重な音声を、時代に適合したメディアで提供!

株式会社レインボー・ノーツ
代表取締役

藤原 照久 氏

ちいさい頃はどんなお子さんでしたか?
高度成長期の丑年生まれの新人類といわれた世代です。小学校から毎年学級委員。中学・高校時代は生徒会長をやっていました。
祖父母と両親、それに妹の6人家族の長男として育ちました。性格はおっとりしていましたが、母親からは仕事に貴賎はない、人は平等だと教育されて育ち、正義感が強く、弱いものいじめをしているやつを見ると黙っていることができず、しょっちゅう喧嘩していました。
祖父は大阪で米屋を営んでいましたが、疎開で兵庫県南東部の県境に面する川西市に移り、そこで父親が助成金のでる養鶏業を始めました。当時1個20円した玉子は高級だったと思います。

将来はどんな道に進みたいと思っていましたか?
中学生の時にバンドを始め、将来は音楽の道にいきたいと考えていました。数学や理科が好きだったということもあり、大学は理系を目指しました。音楽と数学は同じ脳を使います。譜面やコード進行は数学です。それに男は理系と勝手に思っていたところもありました。日本の高度成長期に育った私は、ブランド志向の申し子みたいなものです。日本の環境汚染もどんどん進んでいった時代でした。
私の学生時代のピークは中学の時でした。中学3年の時に先生から「おまえは知能指数が高いのだから学年で一番にならなければいけない」といわれたことがありました。その言葉で「俺は頭がいいんだ」とうぬぼれてしまい、それ以来勉強をしなくなりました。(苦笑)知能指数は、単に年齢との比較で、少し成長が早かったということだけですもんね。なんの自慢にもなりません。その結果、コンプレックスの塊で暗い高校時代を送りました。高校ではバンド活動を禁止されていましたし・・・。

東京の大学に進まれたのですね、それは何故ですか?
将来は音楽の方面にと思っていたので、大阪の大学に受かったものの、大阪にはレコード会社がないことを知り、東京の大学に進みたいと一浪して、難波の少人数制の予備校に通いました。ところがその授業についていけず、バンド活動を始めてしまいました。希望した大学ではなかったんですが、なんとか東京の総合大学に進学しました。大学で専攻したのは、白衣を着て研究をする化学です。

音楽に進む夢はどうされましたか?
シンガーソングライターを目指していたのですが、ルックスにあまり自信がないので(笑)これは作曲家になるしかないかと思っていました。大学4年の時にダニー飯田とパラダイス・キングのマネージャーと知り合いになり、相談したところ「それなら、ダニーさんに教えてもらえ。ボーヤになれ」といわれて、大学を留年することが分かっていたのですぐボーヤになりました。

あのアメリカンポップスの「パラキン」の愛称で親しまれていた「ダニー飯田とパラダイス・キング」ですね。ところで「ボーヤ」とはどういう仕事ですか?
ダニーさんは坂本九や九重佑三子の育ての親です。「ステキなタイミング」、「シェリー」という曲ご存知ですよね。ボーヤというのは楽器運びです。こまごまとしたバンドのメンバーのお世話係とでもいいましょうか。当時ボーヤは結構乱暴に扱われていましたが、私はそんな経験はなかったですね。メンバーの人たちがして欲しいことの先を読んで動いていましたので、怒られることは全くありませんでした。大学4年〜5年生はバンドと一緒に全国を回って仕事をしていたので、卒論で研究をする時間がありません。そこで卒論に選んだのが「チタン・マグネシウム等の非鉄金属の分析方法」というテーマで、大学に通わず、仕事の合間に英文の文献を訳していきました。
ある時、ダニーさんから「お前は押しが強いからマネージャーにむいている」といわれ、それなら続けてもいいかなとなんとなく思っていました。当時は日本の景気がよく、一人の学生に対して8社ほどの求人が来る時代でした。大学の先生の「焦って就職することはない。サラリーマンをやるなら30歳になってからでもいいのでは」という言葉を真に受けて、マネージャーになってしまいました。(笑)

マネージャーの仕事とは?
マネージャーもボーヤに毛の生えたような仕事でした。まずGパンで楽器を積んだトラックを運転して入り、楽器を下ろし設置します。ダニーさんのスチールギターを組みたて調整します。ダニーさんはいつもリハーサルなしのぶっつけ本番の人でしたら、スチールギターのチューニングには神経を使いました。準備が終わるとスーツに着替えて会場の担当者に挨拶をします。演奏が始まる音が出るとギャラをもらい、すぐ照明係りに変身です。(笑)終わったら楽器を片付け車に積み込みかえるというのが一連の仕事です。ハードでしたが楽しかった時代です。でも志した作曲をする暇も無い毎日でした。2年くらいやっていましたが、何かに腹を立てて辞めてしまいました。何が原因だったか忘れてしまいましたが・・・。結構短気なところがありますね。(苦笑)

 
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プロフィール
1961年 兵庫県川西市生まれ。小学校〜高校は、元ヤクルトの古田選手と同じ兵庫県立川西明峰高校卒。
1981年   東京の大学に入学 就職は諦め、作曲家になるか起業するしかないと思い込む。景気が良く、アルバイトでもタクシー乗り放題、毎晩寿司屋に連れて行ってもらったり、バーまで連れて行かれ楽しい時代。
1984年 大学4年。作曲家になりたいならパラダイス・キングのボーヤになれと誘われ、即ボーヤに。当時の教授の「サラリーマンになるなら、30からでいい」という言葉を信じ、大学5 年目、卒論を実験がなく大学に行く必要のない文献調査の英訳を奪い取り、毎日働く。卒業と同時にマネージャーに昇格。
1990年  29 歳の時に音楽ディレクターとしてデザイン会社に入社し、カラオケを制作する。社長に気に入られ、鞄持ちみたいに毎晩お供。それが、メインの仕事に。韓国に毎月10 日間、中国にもお供させてもらう。バブルの余波が残っていた時代。
1993年   デザイン会社退社と同時に取引先の某レコード会社で、通信カラオケのディレクターになる。
1997年 35 歳で独立。有限会社レインボー・ノーツを中目黒に設立。
1994年 商事会社退社。
2000年 着メロブーム到来。
2001年 株式会社に組織変更。
2004年 千代田区に引越し、ジョギングを始める。
2005年 着メロから撤退。麹町に音声収録スタジオを開業し、美術館、博物館のオーディオガイドやCS番組などの音声を収録する。
2009年 マラソンに打ち込み、48 歳でサブスリー達成!年齢別で、全国69 位になる。
2011年 オーディオブックレーベル「sound mind」設立。

   
株式会社レインボー・ノーツ

発行者メッセージ
藤原照久さんにお会いしたのはとても久しぶりです。新しい事業を始められたとお聞きしました。新しいことに次々とチャレンジしている藤原さんの新しい挑戦についてお聞きしました。

業務内容
録音スタジオ

sound mind
江守徹の
「声で聞く、腹にずしん!とくる名言365」

江守徹氏インタビュー



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